太った女性にとってジムは安全じゃない。でも、私にとっては大切な場所
私は太った女性で、アスリートでもある。3年前からウェイトトレーニングをしている。
始めたころ、ウェイトルームに入ることは、男性ばかりで有名なエリアに足を踏み入れることだった。多くの人たち、特に女性にとって、ウェイトルームを利用することは、よそよそしくて威圧的なジムの一角に入っていくことを意味した。
3年が経ったが、今もそうした評価は変わらない。だがジムは、私の安らぎの場所にもなった。私はずっと、スポーツが得意になることはないだろうと思っていたが、それが間違いだったことを体が証明している。
私たちの文化では、誰がどこで、なぜ体を動かすのかという、ジムにまつわる考えに、性別が関係してくる。必ずそうだというわけではないが、心肺機能を高める有酸素マシンは、女性利用者が多い傾向にある。健康であると同時に、しなやかで引き締まっていて、体をもっと小さく、文字通り、自分の占有空間をもっと小さくしようと努力している女性たちが利用するのだ。
いっぽう、ウェイトルームは、男性に居心地が良いようにつくられている。もっと強く、もっと大きくなろう、より大きな空間を占有するために、体をつくろうという人たちの場所だ。
ジムにはいつも、あらゆるジェンダーのアスリートたちがいて、それぞれの場所を占有している。ウェイトリフティングをする女性は私1人ではなく、近年ではどんどん増えているが、ここでは一般的な話をしよう。女性の大多数がウェイトルームでバーを持ち上げているという状況は、あまり見かけない(見かけるなら、どこのジムか教えてほしい)。
子どものころから太っていた私は、体育の授業で受けた精神的トラウマのせいで、その後、ほとんどのスポーツに対する興味を失くしてしまった。いじめられはしなかったが、十分辛い思いをした。1マイル走ではビリ、ドッジボールのメンバーで選ばれるのは最後、学校の制服は子どもサイズが合わなかった。これらすべてが言わんとしていることは明らかだった。私のためにつくられたものは何一つないということだ。運動は罰の1つだった。もし縮んで小さくなることができれば、不都合なことは減るだろう。
運動はやめなかった。でも嫌いになり始めていた。運動が恐くなってきていたので、代わりにダンスのクラスを取った。自分の体から逃げたい、時間をつぶしたいと、エリプティカルマシン(ペダルが楕円を描くように動くマシン)やトレッドミル、ローイングマシンで刺激のない時間を過ごした。自分の汗や呼吸や時間を刻む音、自分に対する不満と一緒にいなくてすむように、頭の中では、どこかほかの場所にいると想像した。
カレッジのジムにはウェイトルームがあった。私はストレッチをしに行っただけだ。私のような体形の人は誰もいなかったから、足が遠のいた。やり方を教えてくれる人がいなくては、安全に始めることはできない。なにより、格好悪く見えたり、か弱そうに見えたりしたら、どうだろう。私がマシンと格闘していたら? うまくできなかったら?
そのころまでに私は、自分は女性として、ただの1度も失敗が許されないことを理解していた。平均以下のことをするのは許されないのだ。なぜなら私は、自分のジェンダーとそのメンバー全員を代表しており、この分野における彼らの今後のチャンスを担っていたからだ。もし私が1度でも達成できなければ、自分を含めたすべての女性をがっかりさせるだろうと思った。真面目に受け取ってもらうことが難しくなってしまうからだ。だから私はやらなかった。やろうと思うこともなかった。
20代になって、私は強い女性たちに出会うようになった。ベンチプレスをする女性や、バイクに乗る女性。ジムにレインボーの短パンを履いてくるクィアの女性、自分の筋肉の写真を誇らしげに投稿する女性。それに、意欲があって自分のスタイルを持ち、気取らない女性。彼女たちは、女性であることをほかの方法で示し、デジタルアーカイブに残していた。思うがままに、強さと女性らしさを経験していた。私はどうしても彼女たちの仲間に入りたかった。
そこで、懸命に体を鍛え始めた。最初は、ロズという名の、体の大きなトレーナーと組んだ。「たくましい体になれるよ」と言ってくれた初めての人だ。彼女は素晴らしくて、協力的でクリエイティブだった。
私は最初、たいていは、自分が弱くてむき出しで無能だと感じた。私はいつも、ジムを出たとたんに泣き出した。泣きながらバス停まで行き、バスに乗ってからも道のりの半分は泣いていた。決してうまくできるようにはならないだろうと確信していた。
でも2カ月が経つと、うまくできるようになった。そうなると、「あなたならできる」と誰も言ってくれなかったせいで自分の手に届いていないものが、ほかにもあるのではないかと思い始めた。
自分の体のことで、ほかにどんな思い込みをしてきたのだろう。痩せることを私のエクササイズの最終目標から取り除いたら、何が変わるだろう。何がその代わりになるだろう。そして私はリフティングを始めた。
リフティングを始めた最初の数カ月は屈辱を味わった。煌々と明かりがついた地下のウェイトルームで、『Supermarket Sweep』(スーパーで商品を購入しながら進行するアメリカのクイズ番組)のように、楽しそうにプレートを選びながらバーに取りつけていくがっしりした男たちに囲まれ、私は、昔の1ドル硬貨の大きさを模した「シルバーダラー・パンケーキ」のようなミニサイズのプレートと格闘していた。
私は、希望を聞いてくれるトレーナーに付いてもらった。フォームにこだわる人で、わずかずつの私の進歩を喜んでくれた。
「世界中であなただけが、どんなに鍛えてもたくましくならない、なんてことはありえないでしょう?」と彼女は言ってくれた。それでも私は、自分の体はどういうわけか、自然の法則に逆らうに違いないと信じていた。
自分が間違っていたことを、これほど喜んだことはなかった。20代後半はいろいろなことがあってゴタゴタしていたのだが、私はシンプルなタスクをこなすことに癒しを見出した。携帯にさわれず、マルチタスクができない数時間が安らぎだった。
すぐに満足できたわけではないが、時間とともに、体を鍛えることに喜びを感じるようになった。2016年の選挙のあとの数カ月は、リフティングをした日だけは、夜ぐっすり眠ることができた。不確かな世の中で、1つのことを自分でコントロールすることを味わった。そしてゆっくりと、達成する喜びを感じ始めた。
以前は想像もしなかった重さのウェイトを持ち上げるようになった。父親の体重と同じ重さのウェイトをデッドリフトで持ち上げるという、高めの目標を初めて設定した。できたときは、父に電話して一緒に喜んだ。
体形は変わらなかったが、買い物袋を楽々と持ち運べるようになった。疲れを感じることなく何時間もカヤックを漕げるようになった。躊躇せず荷物を頭上の棚に乗せることができるようになった。
私たちは一般的に、太った人はもっと運動すればいいのにと考えるが、経験からすると、現実にはそうはいかない。手ごろな価格で品質の良い、大きいサイズのスポーツウェアはまだ見つかりにくく、たいていの店では買うのはほぼ不可能だ。
ジムの宣伝には、脂肪燃焼とか、お腹を引っ込めるという言葉が使われている。多くの人にとって私の姿は「ビフォー」であり、ひどい悪夢の中の自分の体のイメージだ。何年も通っているジムでさえ、私はいまだに「ジム初体験おめでとう」と言われる対象だ。知らない人が一方的に、体重を減らすためのアドバイスをしてくれたり、頼んでもいないのに私を励ましたりする。私たちは太っている人に、もっと体を鍛えてほしいと思っているのではない。太っている人には、いなくなってほしいと思っているのだ。
最近、私は友だちと一緒に、新しいジムに通うことにした。魅力的な古臭さで、たいてい空いていて、私たちのトレーニングに必要な、筋トレ好き向けのマシンが揃っていた。そして、ウェイトルームにいる女性は、ほぼ私たちだけだった。私たちがよくいるのは、他から離れて壁に向かって置かれた、マットとスクワットラックのところだ。
以前、デッドリフトをやっていたとき、友だちが、一生懸命私たちの注意を引こうとしている男性に気づいた。彼は友だちに、私のフォームを変えるべきだ、私のトレーニングを中断して、彼女がフォームを直してあげるべきだ、と言った(ちなみにこのフォームの変更というのは、私がやっていることに必要ではないし、生理学的に利益になるわけでもなかった)。
友だちは少しだけ彼の方を見たが、またスマホの画面に戻った。私がそのトレーニングを終えると、彼女は、「あの人の方を見ちゃだめよ」と私に囁いた。少し先では、1人の男性が、レッグプレスマシンを使って自己流のトレーニングをしており、首の後ろで重いプレートを危なっかしく動かしていた。おわかりだろうが、彼のフォームをとやかく言う人はいなかった。
私は、いつも男性から見られ、彼らの存在や意図、望みを意識して生きてきた。20年間にわたって、人前にいるときはいつも視線に晒されてきた。毎日意見され、評価を受けてきた。レイプすると脅された回数は多すぎて覚えていない。どこにいても、どこへ行っても、私は自分が「規定外」であることを思い出させられる。私は通りすがりのビジターでしかなく、自分の場所を要求することは許されていないのだ。
私にとって、太っていて女性であることは、自分の体が自分に属していないということを意味していた。みんなの消耗品なのだ。私がトレーニングすると、まるで円形施設のまん中にいるように、私の体は男性の視線に晒される。
フィットネスの場での私の存在は、今も、規定外のもの、興味の対象、例外として捉えられる。私は、存在を許されることに感謝するよう期待されている。そして、あまりにもたくさんの人(それはほぼ男性で、トレーナーではない)が、私に正しくトレーニングさせることを自分の仕事だと考え、本当は誰の居場所にいるのかを私に思い出させることを義務だと思っている。
筋力向上を目指すアスリートとして、私はいつもこうした門番のような人たちと関わっている。品定めされ、評価され、批評される。言い寄られる。
マシンがすべて埋まっていると、たいてい私が一番に先に、「いつ終わるのか」と聞かれる。男性は私のトレーニング中に、断わりもせず、私のラックからプレートを抜いていく。ほかのところに余っているプレートがあってもだ。
「筋肉がつきすぎないように」、あるいは「男っぽくならないように」とアドバイスを受ける。私は、自分の境界線を主張することにしている。彼らのアドバイスは欲しくないこと、知らない人が私の体を何と思おうと、興味がないことを伝えてきた。
また、体のサイズや性別による能力の違いについて、有害な意見を受け入れている人々に対しては、可能なときには、優しい気持ちを持つことにしている。時間と経験を積んだおかげで、こうした人たちが、実際に私のことをとやかく言っていることはめったにない、ということがわかった。むしろ私は、彼らの恐れと心配の受け皿になっていたのだ。
最近は、ウェイトについて考えるときは、たいてい、減らすことではなく増やすことを考える。バーにプレートを追加してリフトしたり、スクワットしたり、プレスしたりする。遺伝的にもホルモン的にも、私は決してガリガリに痩せることはない。だが、たくましくなることはできる。
引越しを手伝うときや、ため込んだ洗濯物の重い袋を抱えてコインランドリーに行くのが苦にならないとき、ボーイフレンドが私の上腕をぎゅっとつかむときに、自分の体に対して深い愛情を感じる。ジムで一定の時間を過ごしているように見える体つきではないが、もう気にしない。私がトレーニングをやり始めると、周りが驚くだけのことだ。
インターネットでは、詳しい人たちが口をそろえて「健康面は大丈夫なのか」と言う。彼らは、私の病歴や健康状態、どれくらい体に気をつけているか、日々の習慣などについて知っていると思っているからだ。最近、こうした「私の健康を心配してくれる人たち」には、私のためにジムの会費や病院の診療、食費(もしそれほど心配しているなら)を寄付することができるアプリを紹介している。
健康というものは、見るだけで何もかも評価できるものではないし、私の価値を正当化したり、量化したりするために、ほかの人に証明しなければならないものでもない。完璧な健康を得ることが、「この地球上で自分の場所を得る」ための許可書になるわけではない。小学校で先生は何を教えてくれただろう。自分のやることにしっかり目を向けなさい、だ。
重いバーベルを持ち上げるときは、バーをしっかり握れるようにストラップを使う。呼吸を整える。おそらく、その日初めて、意識的に息を吸い、吐く。しゃがんで腹筋に力を入れる。優雅な動作で、自分の前に広がる日食のような無の空間を見つけ、ジムの雑音を消す。内の声も外の声も曖昧になり、マルチタスクの脳が静まり、私は1つの機能だけを行う道具になる。
立ち上がり、バーを地面から引き上げ、数百ポンドの鉄とゴムを宙に浮かせる。30年間否定的な見方をしている人たちに挑み、自分自身に挑み、熱力学に挑み、止まっている物体を動かす。完璧かつシンプルだ。
母が先週、素晴らしいニュースを送ってきた。初めてデッドリフトができたのだという。私がソーシャルメディアにときおり載せるジムの動画に触発されて、知り合いたちが、再びトレーニングを始めたというメッセージを送ってくる。
ジムで女性が駆け寄ってきて、重いウェイトを上げられるようになるにはどうしたらいいか、と聞いてきた。熱意は伝染する。私は自分が伝達者であることを誇りに思う。それは、ウェイトルームのパイオニアである先輩女性たちから受け継いだものだ。
私は長いあいだ、ほかの人が快適なように、小さくなって生きてきた。自分の無能さを恐れるのと同じくらい、自分の技能を恐れてきた。ウェイトルームは、自分の役に立たないそうしたことを忘れる場所だ。私としては、もっと多くの女性が、強さを求めるようになればいいと思う。強さとは、私たちの多くにとって、生まれながらの権利だ。しかしそれは、私たちの体に執着しながら私たちの力を恐れる社会によって、抑制されてきたものなのだ。
この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:浅野美抄子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan