海外で受け継がれる職人気質:移住したすし職人、バーテンダー、美容師
日本国内の日本人人口は少子化の影響で減少する一方だが、海外に暮らす日本人は年々増加しており135万人を超えた。日本人の約1%強が海外に住み、外国で生活基盤を築くようになっている。アジア諸国の飲食店や美容院で働く移住者にスポットを当て、日々の仕事から見えてくる彼らのこだわりについて考えてみる。
香港のすし職人:15年の修業体験を生かして
高橋義秀さん(40歳、仮名)は、「はい、中トロ」とカウンターに握りずしを置くやいなや、次のネタを握り始める。まだ午後7時前にもかかわらず、カウンターもテーブルも一杯だ。高橋さんは無駄のない動作で次から次へとシャリをつかみネタを握りながら、片言の広東語や英語を混ぜ、大げさな身ぶりで冗談を言って客を笑わせる。すし職人の高橋さんは、香港在住7年目だ。高校卒業後、東京・日本橋で15年修業し、いまは香港の中心街にある高級すし店を任されている。
高橋さんが「お待ちのお客さんにお茶!」と現地スタッフに伝える。従業員は店の外に並べられた椅子に座っている客にお茶とメニューを渡す。待っている客はお茶をすすりながらメニューの写真を見て、隣の客と楽しそうに話し合う。香港では待っている客へのサービスは皆無に近く、「日本発サービス」として好評だ。
高橋さんの修業時代は過酷だった。見習いを始めた頃は皿洗い、まな板や包丁の手入れ、床の掃除ばかりで、シャリやネタにふれる機会はほとんどなかった。すしの握り方を覚えたくても、親方や先輩に質問できる雰囲気ではなく、仕事中はただただ邪魔にならないように働くことに神経を費やした。先輩に突然殴られた時は、自分の動きが遅かったのか、先輩の機嫌が悪かったのか分からずに悔しい思いをした。それでもひそかに親方や先輩のやり方を何年も観察し、魚の大きさや季節に合わせて変化をつけて下ごしらえする技術を身につけた。
初めてカウンターの後ろに立つことを許された日は、無我夢中で握った。そして閉店後に厨房(ちゅうぼう)で一人になった途端、腰が砕けしばらく立ち上がれなかったが、うれしくて涙が出た。しかし、それからも苦労が続いた。古参の先輩が店に舞い戻って来たため、また裏方の仕事にまわされてしまった。高橋さんは「自分は親方の意図をよく理解している」、「誰よりも速く上手に握れる」、「店への愛情も負けない」という思いを胸に秘め必死にシャリを炊き、魚の下ごしらえをし、客の前で再び握れる日を待ち続けた。
転機は突然やってきた。ある日親方から呼び出され、常連客の一人に紹介された。33歳の時だった。その常連客が香港で店を出そうとしており、店長を探していたのだ。海外に出たのはハワイ旅行に一度行ったきりで、香港には縁もゆかりもなかった。しかし、50代の先輩がいまだに独立できておらず、自分の将来に不安を感じていた。その時から7年、高橋さんはいま香港人の弟子を指導し、店の内装からメニューの調整まで独りで決めている。
シンガポールのバーテンダー:目指すは横浜にあるマスターの店の再現
シンガポールで働くバーテンダーの藤田洋二さん(37歳、仮名)の経験も似通っている。横浜で働き始めてから5年間は客の前でカクテルを作らせてもらえなかった。店の営業が終わってから必死でカクテル作りの練習をし、家に帰ってからも米を入れたシェーカーを振った。コンテストに出場し賞を取ったが、それでもマスターに認めてもらえなかった。彼は修業時代を振り返り、「蹴られたりしてムシャクシャしたこともありましたが、今思い返すとマスターの考えが実によく分かるんです」とシェーカーを振りながら言う。
シンガポールにあるオーセンティックバーの店内(筆者撮影)
藤田さんは修業中に知り合ったシンガポール人常連客と意気投合し、5年前からシンガポールのビジネス街でバーを共同経営している。深夜3時、最後の客が会計を済ませてから既に2時間以上たっているが、藤田さんは静まり返る店内で一人シェーカーを振り、カウンターのグラスにカクテルを注ぐ。グラスを持ち上げ、色や泡立ち加減を科学者のように観察し、匂いを嗅ぎ、酔わないように少しだけ口に含む。この作業を何十回繰り返しただろうか。一日中カウンターに立ち続けていたにも関わらず、きれいに後ろになでつけられた髪にはわずかな乱れもなく、ワイシャツにはシワ一つない。濃紺のジャケットと蝶(ちょう)ネクタイが際立っている。
藤田さんのバーはカクテルの味だけでなく、音楽、照明、家具、装飾、香りの全てがスタイリッシュに統一されていると評判だ。藤田さんのバーが醸し出す雰囲気がシンガポールで人気になっているのは、彼自身が言うように横浜や銀座のオーセンティックバーに受け継がれてきた日本独自のバー文化を大事に守っているからだ。彼は横浜のマスターの店をシンガポールに再現したいと考えている。