「生きる価値のない病人」という発想はどこから生まれるのか
ある日の帰り道でした。恐ろしい思いつきでしたが、自分の心を捉える威力のある発想が心に浮かびました。
痛みもあり、体の苦痛もある。トイレにも行けなくなる、意識も朦朧としてはっきり会話もできなくなる。
みんなそういう状況になるのなら、早く死んだ方が楽になるのではないか、患者にとっても家族にとっても幸福なのではないだろうか。ついにそんなことまで考えるようになってしまったのです。
ホスピスの現実
じっくりと人と関わり、がんの苦しみから患者を少しでも救いたいと、今から16年前、31歳の時にホスピスで働くようになりました。
医師になってからわずか6年間のキャリアでしたが、自分は医療技術の習得よりも、人と関わり、一緒に悩み続ける方が向いていると感じるようになっていました。
名古屋から神戸に家族を連れて移り住み、ホスピスで働くようになりました。自分の望む職場を得て、僕は生き生きと働き始めました。ホスピスでは、色んな本に書いてある通り、きっと、自分で望んで最期の日々を見つめながら過ごしている方が療養しているのだろうと思っていました。
しかし、現実は違いました。
神戸市内の大きな病院はどこも満床で、患者が入院するベッドが足りない状態です。そのため、長く入院している患者は少しでも早く別の病院に移さないと、新しい患者の診察ができないばかりか、病院の収入も減ってしまうため、いまや2週間も入院できないほどの状況です。
とある大病院では、家で倒れ入院した患者にも、最初の日から、「いずれ時期が来たら、別の病院に移って頂きます」と言うのです。
治る見込みのない、癌の患者は、本人や家族が望むか望まないかに関わらず、ホスピスへの転院を、病院の担当者から求められます。大病院では亡くなるまでずっと入院できる訳ではないのです。ベッドで寝たきりの状態であっても、転院するのが現状なのです。
そして、僕の働いていたホスピスでは、多くの末期がん患者を受け入れていました。入院される前に必ず家族と面接するようにしていました。その時に「どうしてホスピスに移ることにしたのですか?」と尋ねると、決まって答えは「病院から退院するように言われました」「連れて帰っても家で看ることはできないので」というものでした。